本木道三&堺東庵
このコンビネーションは
いつかどこかで・・・ということで
そうです
1998年の「徳川慶喜」
町火消しの頭(かしら)として登場
慶喜上洛の際、同行しました
懐かしいからみでした
「織田信秀」(信長の父上)役は
髙橋克典
歴代「織田秀信」を演じた役者
国盗り物語(1973年 NHK大河ドラマ 演:千秋実)
織田信長(1989年 TBS 演:千葉真一)
信長 KING OF ZIPANGU(1992年 NHK大河ドラマ 演:林隆三)
織田信長(1994年 テレビ東京 演:神山繁)
豊臣秀吉 天下を獲る!(19955年 テレビ東京 演:寺田農)
織田信長~天下を取ったバカ~(1998年 TBS 演:夏八木勲)
国盗り物語(2005年 テレビ東京 演:伊吹吾郎)
濃姫(2012年 テレビ朝日 演:柴俊夫)
女信長(2013年 フジ 演:西田敏行)
信長協奏曲(2014年 フジ 演:団時朗)
光秀と家康
今回、人質として織田家に居た竹千代(家康)が登場
光秀と絡んだのは、何かの布石でしょうか
そういえば、光秀=天海説というのがあります
光秀は山崎の合戦で死んでおらず
家康のブレーンといして名高い僧、天海は光秀であったという説
フィクションではありますが
ウィキペディアにも取り上げられているほどメジャーではあります
特に家康の墓である日光東照宮の傍には、明智平という地名があるという
歴史のミステリーはあまりに有名です
まさかとは思いますが、麒麟がくるの最終回ラストは
↓
光秀=天海説
こんな終わり方への布石かもしれないなと思ってしまいました
天海=明智光秀説は、江戸時代初期、幕政に大きな影響力を持っていた僧・天海と、戦国武将の明智光秀は同一人物であるとする説。フィクション等でも採用され、広く知られているが、専門の歴史家の著した書籍で事実と扱われたものはなく、中世史家の小和田哲男も史実ではないとしている。
天海は高名な僧であるにもかかわらず前半生は詳細に知られておらず、第12代将軍足利義晴の子であるとか、古河公方足利高基の子であるなど、様々な説が唱えられてきた。明智光秀が天海となったという説もその一つであるが、いつ頃唱えられだした説かは定かではない。
1916年(大正5年)、天海の伝記『大僧正天海』を著した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の芦名氏の子であると推定しているが、一部の考証家に「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えるものがいると記述しており、この頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられる。
専門の歴史学者でこの説を支持しているものはおらず、同時代史料にも明示したものは存在しない。しかし会計学者の岩辺晃三など支持者も存在する。
天海の遺品のなかには、天海の所用と伝えられる甲冑(滋賀県求法寺所蔵)と鉄砲(川越喜多院所蔵)が現存する。
天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠
同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある。日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。
トリセツがいい!
今年の大河ドラマは、歴史に詳しくない方でも
ストーリーが理解しやすいように
取り扱い説明書(トリセツ)が、HPに掲載されています
これがなかなか、わかりやすくていいですね
<第4回トリセツ> 監修:小和田泰経
「麒麟がくる」をより楽しんでいただくために、ドラマ上の設定や展開、世界観をわかりやすく解説します。
織田軍×今川・松平軍 小豆坂の戦い
天文17年(1548年)。尾張から侵攻してきた織田氏と、三河側の今川氏・松平氏連合で繰り広げられた三河国・小豆坂での戦い。