【東京大空襲】リメンバー東京大空襲

 

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まずは動画で学び

 

東京大空襲をよく知らない」と、言う方は

まずはこちらをご覧下さい

1分30秒で学ぶ東京大空襲

 

www2.nhk.or.jp

 

 

動画のなかにもあるが

絶対防衛圏であったサイパンが陥落してしまったことにより、本土爆撃が可能になってしまった

 

ちなみに、サイパン諸島から日本の中間地点になったのが硫黄島

 

嵐のニノが出演した「硫黄島からの手紙」ハリウッド映画にもなったので

ご存じの方も多いとは思う

 

なぜ、米国が硫黄島を奪取しに来たかといえば、当時はまだ飛行機の性能が今ほどは良くなかった

 

サイパン諸島から日本本土へ重たい焼夷弾を積んで飛行する際

もしも飛行機に不具合が発生した際、最悪、海の藻屑と消えることになる

硫黄島がちょうど中間地点として、いざという時に不時着できる場所としては

最適だったのである

 

 

1945年3月10日

 

 米軍はB29爆撃機の編隊で東京江東地区を空襲

投下されたおびただしい数の焼夷弾

東京を焼き尽くした

 

東京大空襲
第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた
東京に対する焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である

 

東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが
特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた

 

通常「東京大空襲」と言った場合
特に規模が大きかった1945年3月10日に行われた空襲を指すことが多い

 

太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも
とりわけ民間人に被害を与えた空爆である

 

 

 

リメンバー東京大空襲

 

犠牲者10万人超・・・
私たちが忘れてはいけないことのひとつ、東京大空襲

1945年(昭和20年)3月10日未明・・・・

米軍による、残虐、極悪非道極まりない無差別殺戮であった


東京大空襲の実態を展示する数少ない施設の東京大空襲・戦災資料センター
2002年に、民間団体が開館したセンターには、遺品や日記などが約3800点保存され、そのうち約600点を展示している

 

是非とも、一度は足を運ぶべきであろう

 

tokyo-sensai.net

 

カーチス・ルメイ

 

東京大空襲の指揮官である


ルメイは日本本土の上空からの偵察写真をみて

「ヨーロッパで襲われたような低高度用の対空火器がないことに気がついた

そこで、低空を飛べば燃料消費が少なく

その分爆弾を多く積め

とりわけ夜間なら成功の確立が高い」と閃いた

 

こうして、夜間・低空・無差別爆撃の戦術が実行された

 

ルメイが指揮するB29およそ300機は、主に隅田川沿岸の下町地帯を襲った

 

ルメイは戦後回顧している「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分にはなれなかったが、とりわけ心配していたわけでもなかった 

私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人の民間人と軍人の両方を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」

 

つまり、ルメイはお互い様論、どっちもどっち論で

10万人の大量虐殺を正当化したのであった

 

ルメイの作戦は、非戦闘員を巻き込んだ大虐殺である

 

被害者遺族はカーチス・ルメイのことを「鬼畜」「皆殺しのルメイ」と呼んだ

 

ルメイ自身

「もし我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」

と後述している

 

本来、非戦闘員を殺傷するのは戦争犯罪となるが、戦争犯罪人として裁かれたのは

敗戦国の日本側だけであった

 

 

【戦争と現代を考える】


20世紀は著しい科学技術と産業の発展をみせた世紀だったが、同時に、この世紀ほどおびただしい人命が失われた時代もなかった

 

「戦争の悲劇」


戦争では、多くの兵士が命を落とす

 

しかし、戦争の犠牲者は、武装した兵だけではない

むしろもっとも大きな被害を受けるのは、一般の人々である

 

武装の民間人や正式に降伏した捕虜の多くが、生命や財産をうばわれる

 

また、国際法上禁じられている毒ガスなどの残虐な兵器を使用する国も存在する

 

これが、戦争の悲惨な現実である


これまでの歴史で、戦争をして、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく、日本も例外ではない

 

日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った


一方、多くの日本の兵士や民間人も犠牲になっている

 

例えば第二次世界大戦末期、ソ連満州に侵入し、日本の一般市民の殺害や略奪、暴行を繰り返した上、捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた

 

また、アメリカ軍による日本への無差別爆撃や、原爆投下でも、膨大な数の死傷者が出た


米軍は人口の多い順に全国64都市を焼き払ったのだ

子どもたちは危険を避け、親元を離れて地方の寺などに疎開した


日本の死亡・行方不明者は軍人・軍属約186万人、民間人約66万人、第二次世界大戦全体の世界中の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人と推定される


戦争犯罪とは」


戦争は軍と軍の戦いで、無差別に誰でも殺していいわけではない

法的に殺すことを認められているのは敵国の武装した兵だけで、非武装の民間人の生命や財産を奪うことは犯罪とされる


このようなルールは19世紀以降、ヨーロッパで戦争の被害が大きくなりすぎたため慣習として生まれた

 

ほかに、正式に降伏した捕虜の殺害や虐待の禁止、残酷な兵器の禁止などがハーグ条約(1907年)のような国際法にまとめられ、違反した兵士や指揮者は、戦争犯罪をおかしたとして処罰されることになっている


しかし、戦争をして戦争犯罪をいっさいおかさない国はなく、むろん日本も例外ではない

ただし、戦争犯罪に対して公正な処罰が行われているかというと、そうはいいがたい


先のソ連によるシベリア抑留なども歴然とした戦争犯罪である


しかし、戦勝国戦争犯罪はほとんど黙認され、それに対して敗戦国の日本は真偽の不確かな戦争犯罪まで十分な審理もされず裁かれ、1000人以上の兵・将校が死刑に処された

 

まとめ

まったく、旅行とかマイルとか、FOPとか関係ない東京大空襲を取り上げました

 

 

でも、私たちはこのような歴史の上に今日を生きています

 

だからこそ、これらを知り、語り継いでいく義務があるのではないかと思うワケです

 

マイラーブログだからといって、飛行機の話題だけしか取り扱ってはいけないということはないのですから、是非ともご理解いただければと存じます

 

今後も、政治、経済、歴史、社会問題なども時折取り上げていければと思っておりますので、今後ともどうぞ宜しくお願いします

 

 

 

 

東京大空襲75年 「水をください」すがる女性から逃げた 今も頭離れず…東京の甚野年子さん
3/10(火) 7:10配信産経新聞

 東京都墨田区の竪川(たてかわ)にかかる牡丹橋の上で、甚野年子さん(88)=同区向島=は黙って手を合わせた。


 竪川は暗渠(あんきょ)になり、川べりとの区別はつかない。親柱だけが、かろうじて橋や川の存在をうかがわせる。真上に首都高速道路の高架があり、昼間でも薄暗い。

 あの頃は明るく、川はよく見えた。川面には油が浮き、黒く焦げたマネキンのような死体が一面、埋め尽くしていた。75年前の3月10日未明、米国は付近一帯を無差別に爆撃した。東京大空襲だ。

 女学校の2年生だった甚野さんも、火の中を必死で逃げた。翌朝、まだくすぶっている焼け野原の中、幼い弟を背負い、どこへ行くともなくさまよった。

 ちょうど、牡丹橋に差し掛かったときだった。

 焼け焦げた着物をまとった若い女性が「水をください」とはってきた。足をつかまれそうになり、思わずよけてしまった。女性の髪は乱れ切り、怖かった。

 街は死体であふれていた。悲惨な光景には慣れたはずなのに、逃げるように立ち去ったことが、今も頭を離れないという。

 甚野さんの実家は戦前、本所区(現墨田区)で製材業を営んでいた。一家で疎開する友人もいたが、商売上難しかった。4人いる弟妹のうち、両親は2人だけ奥多摩の親族の家に疎開させた。実家には両親と甚野さん、それに3歳と1歳の弟2人が残った。

 女学校は戦争末期にまともな授業はなく、学徒動員で薬莢(やっきょう)検査に明け暮れた。昭和19年末から、東京はたびたび米軍の空襲に見舞われるようになった。次はいよいよ-。漠然とした覚悟と、不安だけがあった。

 20年3月9日夜、空襲警報のサイレンが鳴った。だが、すぐに「敵機遁走(とんそう)せり」の放送とともに、解除された。万一に備え、居間の床下を掘り下げた即席の防空壕に、服を着たままもぐりこんだ。

 大きなサイレン音と、飛行機の爆音で目が覚めた。この防空壕では、本格的な空襲に耐えられない。3歳の弟の手を引き、両親とともに家を飛び出した。

 B29が迫ってきた。「民家の屋根すれすれに飛んでくるように見えました。実際はそんな高さで飛ぶはずないですから、怖さでそう見えたんでしょうね」

 降ってくる焼夷弾(しょういだん)で、花火が打ち上げられたように明るくなった。自宅の向かいにあった町内会の防空壕に飛び込んだが、あちこちに火の手が上がり、父の判断でまた逃げ始めた。

 バリバリとトタン屋根の工場が燃え、道路や橋の上にゴーゴーと火の粉が舞い上がった。ヒュルヒュルと焼夷弾が落ち、時折高射砲の破裂音も響く。人の悲鳴は間断なく聞こえた。

 弟はいつの間にかおぶっていた。両手で父と母の手をしっかり握った。火に追われるように走っていると、石造りの納豆室が見えた。ここなら安全だろうと全員で飛び込んだ。

 8畳もないくらいの空間に20人以上がいた。吹き込む熱風を食い止めるため、父たち男性陣は大きな板で出入り口をふさいだ。体で板を押さえ込んだが、隙間から火の粉が舞い込んでくる。甚野さんも靴を脱ぎ、一晩中火の粉をたたいた。

 板の隙間から、牡丹橋の親柱が見えた。熱風をよけていたのだろう。親柱の陰に人々が一列になって隠れていた。風向きが変わるたび、列は左右にうねった。のんきに考える余裕はなかったはずなのに、「金魚のふんみたいだ」と思った。

 翌朝、弟を背負って外に出た。一面焼け野原だった。牡丹橋で水を求めてきた女性に、どうすることもできず立ち去った。

 あちこちに転がる死体はどれも、黒いマネキンのようだった。四つん這いの塊と、その下に小さな塊があった。子供を守ろうとした親に違いない。今なら涙を流せるのかもしれないが、何も感じなかった。

 幸い、一家は皆、無事だった。奥多摩の親族宅に一時的に身を寄せ、再び墨田区に戻った。戦後、嫁いでからも墨田に住み続け、今では孫8人とひ孫6人に囲まれている。

 毎年3月、牡丹橋などでひっそりと供養を続けていたが、最近まで空襲の話をするのは嫌だった。音と光が空襲を想起させるから、花火大会さえ避けていた。

 昨年、小学生を相手に初めて話をした。想像すら難しい世界にも関わらず、熱心に聞いてくれた。今は「体験を残しておくのは、残された自分の役割かもしれない」と感じている。

 東京大空襲から75年。10万人以上が犠牲になったとされるが、正確な数は不明なままだ。米国による未曾有の虐殺は、なぜ起きたのか。私たちは教訓をいかに生かすべきなのか。今、改めて大空襲に向き合う。 (大森貴弘

 ■東京大空襲 米国による東京への無差別絨毯(じゅうたん)爆撃。戦争末期に反復して行われたが、特に昭和20年3月10日午前0時過ぎから行われた大規模な空襲を指す。マリアナ諸島を離陸した300機のB29が、現在の墨田区江東区など下町を襲った。米国は木造家屋がよく燃えるようゼリー状のガソリンを注入した油脂焼夷弾(しょういだん)を使用。大火災を引き起こし、10万人以上を殺害したとされる。

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 


聖火の街 戦火の記憶 東京大空襲75年 ~ 92歳うなぎ職人の思い


焼夷弾の威力

 

 

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